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「横浜でお別れ」の巻。
記事を書く前に、お詫びです。
平成二七年六月五日。
この日、わたしは彼女と逢うために仕事を休みました。
それにより、
歌姫と千葉さな子さんには大変なご迷惑をお掛けしました。
そのことを心よりお詫び致します。ごめんなさい。
昼前、横浜駅に着いた。
普段横浜とは縁のない私だが、今年はある。
数日前には愛妻と演歌歌手のコンサートを聴きにきたし、
営業にも何度か訪れた。
どちらも楽しかった思い出だが、
今回はちょっとばかり、センチメンタルな気分でもある。
それは今日が彼女の旅立ちを祝う、送別会となるからだ。
彼女と待合わせした時間は、午後一時。
時計を見ると、まだ一時間ほどある。
そこで始めて見る赤レンガの倉庫や港の光景やらを
カメラに収めていると、
約束の五分くらい前だろうか、彼女が笑顔でやってきた。
これから中華街で食事をする予定だが、
横浜という街は、お洒落にできている。
観光の名勝をつなぐ遊歩道がある。
その遊歩道をふたりで、とぼとぼと歩いて行くと、
氷川丸が見えてきた。
わたしは遠い昔に、この戦時中の病院船に乗ったことがある。
あれは小学三年生の遠足の時と記憶しているから、
五十年も前のことだ。
その時のわたしは、五十年後、
年の離れた女性と横浜の街を歩こうとは考えてもみなかった。
また、そんな想像ができる、ませた餓鬼でもなかったと思う。
中華街には多くの店が連なっている。
どの店に入ればよいのか、わかりやしない。
そこでとりあえず、名の売れた店、行列が長い店を探して歩いた。
無難な店に落ち着いて食事が並ぶと、いろいろな話をした。
過去のこと、最近のこと。そして未来のこと。
思い出話が尽きると話題は、未来のことになった。
夢が大きいのだろう。
満面の笑顔で熱っぽく語ってくれた。
そんな彼女の横顔をみていると、彼女の成長が嬉しくて、
こちらも惹き込まれそうになったが、一抹の寂しさも覚えた。
そして二時間ばかりの時を過ごし駅に戻ると、別れの時がきた。
二年前の湘南では、彼女から丁重な挨拶をされて、
あやうく落涙しそうになった。
今回は笑顔で別れよう。
さて、なんと言おうか。
気をつけて…。
頑張って…。
元気で…。
さよなら…。
どれもよくない。
こんなことなら、若い頃にキザな洋画でも観ておけばよかった。
ヤクザ映画ばかり観てたから、気の効いた台詞がみつからない。
とりあえず、彼女の小さな手を握ると、
高倉健さんが、ふと脳裏をよぎった。すると、
じゃあな…。
思わず、こんな言葉が、出てしまった。
この台詞。
健さんが言うとカッコいいが、わたしが言うと色気がない。
それでも笑顔だけは、しっかりと作れたつもりだ。
わたしが今、この記事を書いているのが、六月十三日。
明後日、彼女は異国へと旅立つ。
わたしは、ペンキ屋の永遠の幸せを祈ってやまない。
お仕舞い。
吉右衛門。
「バレリーナ」の巻。
三月上旬の昼下がり、私は銀座にいた。
ここで時間を潰すために入いったデパートで、
過去に経験したことのない、甘美な思いができた。
宛もなくのぞいたお店に、とても素敵な靴が飾ってあった。
色は赤。
華麗であった。
正面からだけでなく、右からも左からも眺めてみた。
どの角度から見ても、息をのむような美しさだった。
あまりに出来具合に見惚れていると、
傍にいた女性の販売員さんが話しかけてきてくれた。
説明を訊くと、
靴の名は、「バレリーナ」という。
何と美しい名だろう。
私が職場のスタッフに名付けるHNとは、えらい違いだ。
そして説明を訊けば訊くほどに、
この靴を買わずにはいられなくなった。
孫娘に買おうと思った。
意を決した私は、ふたたび販売員さんに尋ねてみた。
「この靴を、二歳半の孫娘に買ってやりたいです。そして今から、
十五年後。彼女が十八になった時に箱を開けさせたいのですが、
可能でしょうか?」
満面に笑みをたたえた販売員さんは、
ひと呼吸置いて、こう答えてくれた。
「多分ですけど、劣化して難しいと思います」
「……」
残念であった。
あきらめきれない自分がいた。
しかし、一瞬とはいえ、
孫娘が爺さんから贈られた箱を開ける姿を夢想することができた。
そした、成人前の彼女にも逢うことができた。
それは、とてもロマンチックで夢のような時間であった。
ありがとうございました。
お仕舞い。
「途轍もなく長い一日だった」の巻。
あの震災から四年の歳月が流れました。
この日が来ると、みなさん、それぞれに思いがあると思います。
飛行機雲は、大学の卒業式だったと訊きました。
かぐや姫は、自宅で遭遇したと訊きました。
千葉さな子は、会社の説明会で渋谷にいたと訊きました。
この記事は、四年前の震災直後に書いたものであり、
震災の日の生々しい記録でもあります。
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このたびの東北地方で起きた巨大地震の為、
最愛の人を失った多くの方々に哀悼の意を捧げます。
そして被災されています方々に、お見舞いを申し上げます。
2011.03.11。
私は十五時に出発するまえ、机に向かって事務をしていた。
そして、揺れが始まった。
最初はさして気にも留めずに、直ぐに止むだろう、程度に考えていたが、揺れが大きくなるにつれ、窓硝子がギシギシと唸り始めた。
そして鉢が落下するに到り、やっと重い腰を上げたのだった。
全員が駐車場に避難した後、出発の準備していたら二度目の揺れ。
見上げてみると、近隣の建物が大きく左右に揺れている。
これはいけない!。
早く納品を済ませてこなくは、と慌ただしく出発。
そると町には安全帽を被った幾組の一団が路上にある。
それをみていて気がついた。
私は、こんな事をしていてよいのだろうか…。
社長として、決断すべき事があるのではないか。
そうだ。一刻も早く社員さんを帰宅させないといけない。
納品が遅れたことは後日、関係各位に謝りにいこう。
そう決めると急ぎ避難所に引き返し、仕事の中止を告げる。
帰宅の段取りは居住区が事務所より北に位置するAさんとRくん、それに一昨日に入社したばかりの激写は、獅子丸が徒歩で送る。
南に位置する大田区在住のペンキ屋とNさん、そして川崎に住む歌姫の三人は、わたしがベカ号で送る。
それを即決で話すと今度は仕事の段取りを組み直すべく、依頼先との折衝を試みるが、電話が通じない。
仕方がないので、相手先の新富町まで急ぎ出向き、土日の対応を依頼。応諾を得てから、帰社すると北組は既に徒歩で出発したとのことだった。
十六時二十分。
愛車のベガ号に南組の三名を乗せて出発。
直ぐに昭和通りまで出たが、先程までガラガラだった通りは車がギッシリ詰まって、動かない。
然らば!、東へ方向へ迂回して清澄通りを南下すると決める。
これが図星となりスイスイと進めたが、月島を過ぎ、晴海通りを右折した勝鬨橋の辺りで、またも渋滞に埋もれてしまう。
窓外の景色を眺めると、外は夕暮れ。黄昏れている。
後の席に坐るロマンチストのペンキ屋が、沈み行く夕陽をみて、「奇麗…」とひと言。
このような事態に、そんなロマンチックな科白をはくペンキ屋の肩に、手を廻したかったが、それはほかの二人への遠慮からヤメておいた。
愛車は築地から市場通りを汐留に向かい海岸通りを左折。
首都高速1号羽田線の下を芝浦から品川まで辿ってきたが、天王洲を右折したのが、痛恨の命取り。
この渋滞は何だ!。
史上最大の渋滞に巻き込まれてしまった。
わかっていれば、大井競馬場方向を選択したのだが…。
みんな早く帰りたいだろうに…。
今更悔やんでも仕方がないが、申し訳ない気持ちで、私の小さな胸は埋め尽くされた。
十八時四十分。
すっかり動けなくなった。
そして気温も下がり小雨がパラツキだした。
ペンキ屋とNさんが、下車して徒歩で帰る、と言いだした。
なんとか近くまで送りたいが、昨夜も遅くまで働いてもらったから早く帰宅して休みたいだろう。二人の居住地までをナビゲーションで計測すると残りは、5.2キロ。
ごめんよっ!。こんな所で降ろすハメに成ってしまって…。
残念無念だが、この展開を考えると止む終えない。
後顧に憂い感じながら二人を見送る。
後部座席にいた歌姫を前に呼んで再出発といきたかったが、まったく動かなくなってしまった。
ラジオから流れてくる情報は凄まじいものばかり。
お隣の韓国が救援の意思を表明してくれているけど、日本は救援に行くばかりで、来てもらう事があるなんて、考えてもみなかった。
いやはや、なんと言うか改めて事の重大さを思い知る。
歌姫とは、彼女との定番である愛の貧乏脱出大作戦やジャイアントコーンの話をしていたが、話が途切れると、先ほど降ろした二人が心配で、頭の中がそちらの方に支配されてしまう。
二人ともいい女だから、変なヤツに絡まれていないだろうか…。
それに転居したばかりのペンキ屋は土地勘も乏しいだろうから、道に迷っていないか。忸怩たる思いでいたら、豈図らんや、歌姫の携帯にペンキ屋からメール。何でもNさんと飯を食っているとの事。
ホッとひと息。安堵、安堵の三度笠。
不安から解放された。
二十二時零零分。
歌姫がジャイアントコーン屋を目敏く見つけ、それを買いに行ってもらっている間に下車して軽く体操。
久方ぶりに、足を地に着けることが出来た。
そうこうしていたらペンキ屋から無事帰宅のメールが届いた。
やれやれ、半分だけだが、仕事をやり遂げたような気分になれた。
現在地は、品川の南にある鮫洲の辺り。
鮫洲はた二人が下車した地点と彼女等の居住地の真ん中あたり。
約三時間半で2.5キロか…。
歌姫の家までは残り19.8キロ。
残りの距離から推定到達時間を暗算してみる。
今迄走った2.5キロを3.5時間で割って、残りの19.8キロを掛けてみたら、なんと残りは14時間。
愕然としたが、彼女を心配して待つ親御さんの元に送り届けるのは私の使命だ。
兎に角、頑張ろう。
二十二時三十分。
なんだか、申し訳ないなあ。
営団地下鉄が動きだしたようだから、あのまま待機させた方がよかったのではないか…。
ひとりションボリしていたら、天は我を見捨てず!。
大井町を抜けた辺りで俄に流れ始めた、それも夢の時速40キロだ。
然し、その夢も続かない。環状七号線で又もつかまった。
そして二進も三進も行かなくなった。
これはもう勝負に出るしかないだろう。
馬込を過ぎたら住宅密集地に突入して獣道を中原街道に出よう。
ひとりブツブツと呟いていたら、隣からは寝息が聞こえてきた。
よく見ると、歌姫が可愛い顔をして眠っていた。
二十三時三十分。
上手くいった。
抜け道が図にあたって一気に突っ走れた。
さっきまでの落胆した気持ちは何処へやら。
どんなもんだい!。
オレは何時でもタクシーに乗れるぞ、と自慢げに話したら、寝息が豪快なイビキにかわっていた。
中原街道を越えて、多摩川を渡河して最後の直線、南武線の下をヒタヒタと走り、無事到着。
二十四時二十分。
歌姫の母上と初めて対面。そして娘の引き渡し。
得意の営業口調で、
歌姫には、日頃から支えてもらい世話になっている事、
ヤクザなオレにいつも優しく接してもらっている事、
いつも遅くまで働かせて申し訳ない事、
そして、今日は娘さんを無事にお届けした事。
四番目は口に出さなかったが、これらの謝辞を述べて一件落着。
母上にも喜んでもらえて、よかった、よかった。
重大な役目が果たせて、安堵できた。
二十四時三十分。
歌姫と母上に送られて出発。
彼女らの姿が見えなくなったあたりでブレーキを踏んで思案六法。
さて、これからどうしよう…。
何処で寝るか。
自宅のある千葉はガスタンクが引火したとかで危険だから帰ってくるな!、と家内からメールが入っていた。
となると世田谷区の母親のところか、大田区の舎弟のとこか、
将又、荒川区や北区の子供たちの所か……。
考えるまでもなかった。
帰るのは、千葉の自宅に決まっているだろう。
危険とはいえ、家内は不安がっているだろうし、幼い子供たちをこの手で抱きしめたい。
頑張って運転すれば、鶏が啼く頃には帰れるだろう。
これは、社長から父親に変身したって事だろうか…。
多摩川を渡河して駒沢通りから明治通りを抜けて新橋へ。
ここから市場通りを経由して清洲橋通り、そしてとっておきの抜け道を通過して、小松川橋で荒川を渡河出来たのは二十六時半。
国道14号の混雑が予想外だったので、新大橋通りに戻り、今井橋の通過は二十七時。
千葉に帰ってきたぞ。
しかし、こんな時間なのに周囲は異様だ。
歩道には家路に向かう方が沢山の歩行しているし、車も地元のナンバーではなく、足立や練馬で車両の側面には社名が表記してある。
おそらく、電車が動かないから社用車を利用してるんだ…。
国道357号に合流できたが、ここの渋滞もきつい、
それに今までおとしくしていた、睡魔が襲ってきた。
ここで演歌のひとつも流したいが、こんな日のこんな時に演歌を聴くことには、後めたさを感じる。
然し、この際は掟破りだが、お許し願うしかあるまい。
そして、越冬ツバメと雪国を聴いたら元気も回復。
二十八時。
二十八時は言い換えれば、午前四時。
普段なら魚釣りに出かける時間だ。
もしかしたら鶏に負けるのではないか?。
そんなつまらない事を考えていたら、船橋ららぽーとに到着。
ここらからは地元民のみぞ知る近道の海浜通りを選択。
液化上現象に驚きながらも走り抜け、なんかとか二十八時四十分、自宅に戻れて、一件落着。
途轍もなく、長い一日が終わった。
そして、大きな仕事をやり遂げた充実感で心は満たされた。
終わってみて思う。
オレは年なんかとっていない、まだまだ頑張れる。
自信が回復してきたぞ。
長文失礼しました。
お仕舞い。
吉右衛門。
「わたし、真面目なピッツァの味を知りました」の巻。
毎年暮れになると、新宿にある地中海料理店で昼を過ごす。
これはこの数年に恒例化された家内との、ちょっとした行事だ。
昨年のことだった。
目についたメニューに、ピッツァなるものが組込まれていた。
あいにく、私にはピザを食べる趣味はない。
しかしセットメニューだけに、それは要りませんとは言えないが、
どうしたものかと思案していると、家内が手伝ってくれるという。
それならばとオーダーしてみたが、これが美味かった。
途轍もなく、美味しかった。
私が初めてピザなるものを口にしたのは、高校三年生の時だった。
ボーイをしていたレストランの賄いで出されたのが最初だった。
しかし、あまり馴染むことが出来なかったせいか、
それ以来は、宅配物で食べることしかない。
突然ですが、ここまで書いて俄に体調が悪くなりましたので、
ここで休載と致します。
この続きは、また次回。
失礼しました。
吉右衛門