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告知、夜長姫様の誕生会を行います。


各位。


明日(20日)、

下記予定にて、誕生会を行います。

お手隙の方はご参加ください。


日時、11月20日14時半から、

場所、事務所内の打合せテーブル、

主賓、夜長姫様。


吉右衛門。



古い写真を公開します。の巻。


過日、釣行記の資料を探すためにアルバムをめくっていたら

古い写真が出てきました。

最近、ブログに回想記を書いているのと

スミレちゃんからも、

「若い頃の写真を見せて…」と言われていたので公開します。


上の写真は、

縁に(MAR・75)とありますから、1975年03月です。

年齢は21歳の時で、背景は慈照寺です。

40年前は痩身ですね。

今では考えられませんが、

既成の服は詰めないと着れませんでした。


下の写真は、

更に半年ほど前で、池袋で工員をしていた時です。

工場の屋上で、同僚に撮ってもらいました。

この職場が社会人生活の起点で、年齢は20歳です。

異様な長髪で、気難しそうな顔をして、

何を考えていたのでしょう。

そうそう、この時分。

巷では、サンシャイン60の建設が行われていました。


次回は回想記の続編か庄内平野旅行記です。


吉右衛門。








































吉右衛門の回想記。1.972年頃の巻。


1.972年。

東京世田谷三軒茶屋。

その店は、国道246号沿いにあった。

「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。本日は数ある遊技場のなかより、『パーラー白鳥』をご指名、ご来店ありがとうございます」

今も朝、パチンコ屋の前を通りがかると長い行列ができているが、

昔、私もこの行列のなかで10時の開店をジッと待っていた。

そう、当時の私はパチンコで生活の糧を得ていたのだ。


その年の春、私は学校を卒業した。

今まで世間さまには最終学歴は義務教育と偽ってきたが、

この回想記を機に白状すると、実は高等学校にも通っていた。

東京都立烏山工業高等学校電子課卒。

この学校が私の母校であり最終学歴である。

普通、工業高校生は在学中に就職か進学かの進路を決めて

卒業するのだが、私は何も決めずに烏工を後にした。

就職する意思は微塵も無く、

また進学出来るだけの学力もなければ意欲すらも無かった。

では何故パチンコを選択したのか。

難しい話でも何でもない。家で膝を抱えているのがつまらないのと、

パチンコ屋に行けば小遣いを稼げるからだ。

パチンコ生活者は午前10時の開店と共に入店するものと、

相場は決まっている。

それは早く行って、沢山、玉が出そうな台を確保するためだ。

当時のパチンコ台は今とはまったく違った単純な作りであった。

簡単に説明すると、

打ち手は盤面の所々に設けられている入賞口を狙って打つ。

そして入賞口に玉が入いると賞球として15発の玉が払い出され、

入賞に必要とした玉との差玉である14発が純増分として加算される。

役物といったサービスもチューリップしかなかったから、

一攫千金的な要素は何もなかった。

ハンドルも今のような電動ではなく、

上皿に乗せた玉を親指で一発一発弾くアナログそのものだった。

そして大凡2.000-個程度の玉を出すと「打止」

と言ってその台を継続して打つことは出来なくなる。

今でも物事の終わりによく打止なる単語が使われているが

語源はこれである。

最後にレートだが、貸玉が1発2円で換金は1発1.2円であった。

必勝法は毎日、同じ店に通って台の癖と特徴を覚えることだ。

そして同時に釘読みさえ習得すれば、

勝つことはそう難しいことでもなかった。

この頃は今は少なくなったパチプロと称する

いわゆるパチンコ生活者が幾多も存在した。

その理由は、台が今と違い技術介入の余地が大きく、

運に左右されることもなかったから、勝つことが容易であったからだ。

説明書きが長くなってしまったが、

10時に玉を打ち出すと昼頃には1台目の勝負がつく。

そして出た玉を換金して、昼食後にパチ屋へ舞い戻り、

13時に行われる店のイベントである打止台の抽選解放に並ぶ。

それに当たると2台目に挑戦し、

外れると映画館で夕刻までの時間を潰し、

後楽園球場で行われるナイターの弁当売りのアルバイトに出掛けていた。

蛇足であるが、

この頃盛んに観ていた映画が、高倉健主演の「網走番外地」で、

今もこの映画の主題歌をカラオケで歌うと、

この時代のあれこれが、走馬灯のように甦ってくる。

弁当売りをしていたのは、小遣い稼ぎだけが目的だけでない。

野球が好きだからだ。

好きな球団は東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)。

当時の後楽園球場は東映フラヤーズと

讀賣ジャイアンツが交互に使用していて、

東映が試合をする時はさっと売って客席で観戦。

讀賣の時は売り子に専念して試合が終了するまで粘り強く売り歩いた。

パチンコと野球。

好きな事をして糧を得るという虫のいい生活であったが、

収入の方は就職した級友が4万円の初任給で働くなかで、

10万円を軽く超えていたから可成りのものであった。

そして収入が多いことを才能と勘違いし、

有頂天となっていた自分がいた。今、思えば呆れ返るばかりであるが、

当時の私には何の躊躇いもなかった。

そんな生活であったが、季節を境に変化が現れた。


夏。

女ができた。

かねてから口説いていた女に、「うん!」と言わせたのだ。

19歳の誕生日にプレゼントを貰えたのが、応諾の証であった。

嬉しかった。

然し、これが転機となって、私の人生は急展開することとなった。

今、振り返っても、最大の岐路が訪れたのだ。


会社のブログにこんな事を書いていいのかと疑念も感じるが、

まあいいだろう。

この続きは、また今度。


続く。


吉右衛門。


歌姫誕生、の巻


潮風になびかせたスミレの髪が頬にかかっている。

晩夏の海風は心地よかった。

場所は鹿島灘に面した、阿字ケ浦。

食道の女将に案内されたところであった。


「私、あの沖に浮かぶ白い船まで泳げますよ」

スミレは、沖往く船をみて微笑んだ。

彼女は泳ぎが達者であった。

中学校まではバタフライの選手だったという。

人間も鍛錬次第ではそんなにも泳げるようになれるのか…?。

然し、沖を往く船までの距離を考えると、

自分には想像すらも出来ない芸当だと思った。


「そろそろ帰ろうか」

景色に見蕩れているスミレを促す。

日立の出張の帰路に立寄ったのだが、

時計の針は、16時。

これから鹿島灘を左に見ながら南下、

北浦を経由して潮来から東関東自動車道に乗って帰社する予定だ。

事務所までの距離はザッと200km。

ひとりで運転するには、辛い距離であったが、

出来ないこともないと思った。


意気軒昂であった。

いざというときは、根性で押し切るつもりであった。

しかし、北浦の辺りから睡魔が忍び寄ってきた。

懸命に振払うが、睡魔も執拗だ。

スミレに気取られまいと振る舞うが、段々と心に動揺がでてきた。

スミレが異常に気づいて休憩を申し出てくれたが、

田圃に車を停めて、若いお嬢さんと寝るわけにはいかないだろう。


「悪いけど、歌でも歌ってくれないか」

「恥ずかしいから、嫌です…」

消え入るような声で、断わられた。

「じゃあ、演歌を流してもいい…?」

「いいですよ」

iPodを接続して演歌を流す。


吉幾三の雪国が流れた、静かに聴いているスミレ。

次は石川さゆりの津軽海峡冬景色、



天城越えでは、


天童よしみの珍道物語ではステレオの音量を下げ、


スミレの十八番である、

長山洋子のじょんがら女節では、

勝手にスイッチを切り

懸垂巻用の丸棒を三味線にみたてて、

掛け声と共に、アカペラで歌いだした。


こんな風に書くと戯れ言かと疑われてしまうし、

本人も否定するかと思われるが、

これは事実だ。

そして、その歌唱があまりにも見事であったので、

その歌詞を書き留めておく。


じょんがら女節


スミレさま。

お陰さまで、すっかりと眠気も醒めたです。

有難う御座いました。

そして、中森明菜さんの代名詞、

「歌姫」を貴女の呼称とさせてもらいます。


お仕舞い。


吉右衛門。


オマケ、

写真です。

キャプション、

上から、

沖往く白い船。

二枚目から、

自然な笑顔がでるようになった。



孫娘と対面、の巻。


8月5日5時半、

「夕希ちゃんが産まれそうなので行ってきます」

二度寝についたばかりのオレの耳元で、女房が囁く。

この台詞。

遠い昔にも聞いたような気がした。

そうだ、そうだった。

あの時と同じ台詞であった。


あれは三十数年前の真冬。

オレたち家族は長女を出産するため、

杉並に在る女房の実家で世話になっていた。

真夜中のことだった、

「あなた、ちょっと行って産んできます」

出産直前に、彼女がオレにかけた言葉であった。

彼女は義父母に病院へ送ってもらう直前迄、

オレと幼い長男を気遣っていた。

気丈な女だと思った。


今、その時に生まれた長女が孫娘を出産する。

寝ていては拙いだろう。

寝室を出て自分の部屋で、出産の報を待つ事にしたのだが、

オレも病院へ行くべきではないか。

俄に義務感のようなものが湧いてきた。

便利な時代だ。

「どう?」

ショートメールで彼女に問うと、

「もう直ぐ、みたいだよ」

返信がきた。

「オレも行くから」。


夏の着替えは早い。

猫のように顔を洗い、60秒以内で身支度を整え出発。

女房と娘のいる病院へと向かう。

道中、またもショートメールで病院の名前やら場所の

詳細を問うていたら、返信のあとに電話がかかってきた。

「時間外だから、インターフォンを押して『鈴木の父親です』と言ってください。開けてくれますから……」

「えっ!、鈴木って言うの!。やだよ。スズキなんていうのは」

更に続ける。

「自分の娘に会いに行くのに、なんで、そんな名前を言わなきゃいけないんだよ」

餓鬼でも言わないようなことを言って愚図る、オレ。

そうなのだ。

嫁いでから七年にもなろうというのに、

未だに相手の名前を受入れられないのだ。

「馬鹿な事を言ってないで、さっさと来なさいっ!」

怒られた…。


病院に到着。

インターフォンを押す。

「おはようございます。

先ほどからお世話になっています、娘の父です」

「鈴木さんですか?」

「えっ!、スズキ?。よく知らないんですが、

そんな名前だったのかもしれません…」

してやったり、扉が開いた。


2階の待合いに行くと、女房が笑顔で待っていた。

ふたりで、遠い昔日の、あの日のことを話していたら、

看護士さんがやってきた。

「そろそろですから、お母さんはどうぞ」

「お父さんも行きます」

そう言って、オレも立ち上がり付いて行こうとすると、

「お父さんは駄目です」だって…。

──何だ馬鹿やろう。

とは言わない。

言うと娘の肩身が狭くなるので我慢した。


ひとりぽつねんと待合いで、待つ。

先ほどまで女房と話していたことを想う。

想うが思考は娘よりも女房の方へと流れた。

あいつとは所帯を持つ前からも数えると、40年も一緒にいる。

花も嵐も踏み越えて、苦楽を共にしてきた。

灯台守の歌だ。

オレたち夫婦も今日から、おじいちゃん、おばあちゃんとなる。

初めて会った時、彼女はセーラー服を着ていた…。

オレは柄にもなく、

──幸せにする!。

なんて言って口説いたけど、約束は守れているのか…。


7時25分、

女房が目を真っ赤に腫らして戻ってきた。

無事に産まれたという。

「よかったね…」

女房の肩を抱いていたら、婿どのも到着。

「おめでとう」

声を掛けたら、彼も感激からか大粒の涙を流していた。

そんな処へ、看護士さんが孫娘を連れてきてくれた。

先ずは家内に渡してから、婿どのへ。

オレにも抱かせてくれようとしたが、

落としたら怒られそうだからヤメておいた。


女房を交えて、婿どのと談笑。

オレはこう見えて人見知りがキツいから、

今まで彼と話をしたことは殆どない。

そこで、生い立ちやら何やらを話していたら、

またも看護士さんが登場。

「あとで、ご主人とお母さんは分娩室へ入れます」、だって。

オレのことを忘れてないか。

「私は?」

「駄目です」。

忘れてなかった。にべもなく断わられた。


このアパルトヘイト並の差別はなんだ!。

グレてやる!。

不当な扱いに反発して、捨て鉢になっていると、

別の年配の看護士さんが現れ、

「お父さんから、どーぞ」だって。

「えっ!、いいんですか」

急に機嫌が直り揉み手をしながら、ペコリと頭を下げる。


娘のいる分娩室へ通された。

ベッドでは娘が感激の涙を流していた。

そしてオレの顔をみるなり、手を握ってきた。

この不意の出来事に、娘が愛しくて堪らなくなった

つい涙をもらい声が出なくなってしまう、オレ。

数分が経ち、漸く、声にならない声を絞り出した。

「ご苦労さま…」。


先ほどの看護士さんが孫娘を連れてきて、

「はーい、おじいちゃんですよ」

そう言って、オレの腕に抱かせてくれた。

初めて世間様から、おじいちゃん、と呼ばれた。


小さな生命に触れた。

とても尊いものに感じた。

これが孫娘か、と思った。

目は、二重瞼だった。

小さな指だが、10本揃っていた。

この娘も家族の一員となるのか、と思った。

この娘のセーラー服姿を見届けるは難しい、と思った。

この娘が長生きすれば22世紀だ、と思った。

変な男に騙されなければ、と思った。

昨年の秋に死ななくてよかった、と思った。

ペンキ屋とスミレから、

おじいちゃんと呼ばれるのでないかと、怯えた。

そして、こうも思った。

今日の事は、昔日にオレが女房を口説いた時から始まったのだ。

この娘にはオレと女房の血が流れている。

なんと言うか子孫を残すという、

大きな使命を女房とやり遂げた、と。


そんな思いを巡らせていたとき、看護士さんが名前を訊きにきた。

虹と字おくりを書いて、虹々、といいます。娘が答えた。


名前表が出来た。

名前、虹々ちゃん、

誕生、8月5日、

体重、3.250g、

身長、50cm。


もう限界であった。

これ以上は無理であった。

待合いで女房と婿と入れ替り、一件落着。

退室した。

ふたりに食事に誘われたが断わった。

ひとりになりたかった。

この感激にもう少し浸りたいと思った。


ふたりと別れてから、

昔の歌謡曲を口づさみながら

小雪、吉右衛門、虎徹の待つ家路に就いた。


お仕舞い。


弐阡壱拾弐年捌月伍日、

吉右衛門。



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