吉右衛門へら鮒釣り2011
番外編  
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病気のため、
暫く休載します、の巻。   

今、あそこでモジッた魚は何だろう……?。
いつもこんな事を考えて、病室の窓から不忍池を眺めていた。

釣行記写真
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東京大学医学部附属病院から見た、景色。
下方に見えるのが、不忍池

どうも、吉右衛門です。
この度、病気を患いまして、「吉右衛門のへら鮒釣り」を、
暫く休ませていただく事と致しました。
其の為、誠に残念で御座いますが、前回の前島での釣りが今季の最終回と成ってしまいます。
戦線復帰の見通しにつきましては、手術した箇所の落着きとリハビリの結果次第で順調に行っても、来春まで竿は振れそうにありません。

私はこのような次第で、早々と納竿と成ってしまいましたが、
みなさまに於かれましては、ご健釣くださいませ。
また、これからは季節が酷寒へと向かいますので、
暖かくしてお過ごしくださいますよう、よろしくお願いします。
…………。
ココから先は何故故にこうなったかを、いつものように駄文で書き綴ってみました。よろしければ、読んでやってくださいませ。
そうそう、それとこれが入院中に書き綴っていたブログです。
よろしければ、こちらもどうぞ。
(インターネットにて「吉右衛門の闘病日誌」で検索ください)

事の起こりは、こう。
前島の釣りから帰って、湖底に消えた玉網置きの代替品も購入し次に備えている時だった、女房から病気の経過と説明を求められたのは。
前々号の釣行記でも書いたのだが、八月の定期検診で持病の異常と言うか劣化が見つかり、可成りの行動制限を言い渡された。
その事は帰宅して直ぐに伝えたが、如何せん、オレは無学だし、ましてや医学となるとまるで疎く、理解を得る説明など出来やしない。そんなオレが再び稚拙な説明をしても埒はあかない。
そこで次回の検診日に家族の同伴を願い出る事で一件落着としたのだが、能天気なオレの事、この時点では、まさかこのような事態が待ち受けているとは思いも寄らなかった。

暗転したのは、その直後。
あれは九月半ばのシルバーウイークの狭間。大きな失敗をやらかした。そう、交通事故、然も人身事故を引き起こしたのだ。
普段から事故だけには細心の注意を払ってきたつもりだったが、充分ではなかった。相手の方を入院させ、また歩行者の方も巻き添えにしてしまった。それからと言うもの、頭の中は自責の念でいっぱいとなった。それと夏場までに盛り返した筈の業績が再び悪化した事も、体を虐める事に拍車をかけた。
そんな時に迎えた九月の検診。
心配する女房を伴って、主治医との面談の時を迎えた。
そこでは執拗に不安を口にする女房を納得させる為もあったのだろう。主治医から更なる検査を薦められ、冒頭に書いた東京大学医学部附属病院への紹介状を書き添えてくれた。結果から言うとそんな女房の心配と主治医の気遣いとで、今回も危機を回避出来たのだが、その時のオレはというと、とても自分の事にまで頭が廻る余裕はなかった。
この日の帰路もそう。新宿へ食事に寄った最中も、何か人ごとで彼女の心配を取り除けた事の安堵感ばかりであった。

内憂外患とは、まさにこのような事だと思った。そしてこの四文字熟語の意味も身に沁みて理解できた。
家に帰れば家族が居るし、職場に行っても可愛いスタッフに囲まれているが、何処か四面楚歌。
人生最大とまでは言わないが、土俵際へ追いつめられた。
…………。
困った、ホントに困った。
然し、よく考えてみれば、これらはすべて自分で蒔いた種だから仕方がない。そう考えて様々な事を受け入れだしたら、少しづつ冷静さも取り戻せてきた。
そんな中、病院へ予約を取る為の電話をしたが、この時も本人の自覚症状が乏しい事もあり、予約は事故の処理と事務所の決算が一段落する暮れにでも、程度にと考えていた。
然し、幸か不幸か、すんなりと予約が取れてしまった。
取れたからには紹介状の手前、行かねば成るまい。
正直、「こんな時に面倒だな」とも思ったが、漸く重い腰を上げるに到った。

10月12日、生まれて初めて東京大学へと向かう。
オレは何度も書いている通り無学だ。それだけに東京大学などは自分とは無縁の世界だと思っていた。
それがこんな有り難くない事で、縁が出来てしまった。
初めて門をくぐり診察と成ったわけだが、この辺の事は前述した事務所のブログに、「吉右衛門の闘病日誌」として散々書いたのでココではヤメておく。
結論から言うと、自覚症状より可成り悪化していて、早期入院を余儀なくされた。そこで慌ただしく翌週からの入院と成ったわけだが、気持ちは複雑だった。

あれは十二年前の秋。
仕事中に具合が悪く成り、命からがら病院へ駆けつけたら急性の心筋梗塞と告げられた。随分と心筋が壊死していたので、まさに三途の川からの生還であった。
そして生還出来た後は、人生に遣り残しがないように生きようと思った。小さな事務所を立上げ、へら鮒釣りも再開出来た。
兎に角、あの頃は何事に挑むにも自信とパワーがあったし、またそれが許される時代でもあった。
然し、今は生きる事の難易度が高い時代へと変遷した。
手術するのは良しとしても、その後の事にまで思考が及ぶと気が滅入る。何だか苦労を背負い込むために戻ってくるようだ。

そんな思いを秘めての入院であったが、直ぐに気が変わった。
病院の環境もだが、甲斐甲斐しく世話を焼きに来る家族、オレの留守中に会社を守り、仕事の合間を縫って入れ替りで見舞いに来てくれる、職場の娘たち。
手術の前日、見舞いに来てくれた最後の娘たちを見送くって部屋に戻った時、不覚にも熱いものが溢れ出てしまった。
もう一度頑張ろうと思ったし、良い意味での開き直りも出来て、
上手く言えないが、新境地を開れけたような気にもなれた。

釣行記写真
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見舞いに来てくれた職場の石橋夏来ちゃんと、病室で。

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同上、田代萌ちゃん。

釣行記写真
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この蛙はブジカエル(無事帰る)、と言うそうだ。

経験豊富な主治医の的確な判断と近代医学のお陰で、又もや命拾いが出来た。
そして退院から十日あまりが過ぎた。
体調は元通りとは言い難いが、心に余裕は生まれてきた。
仕事はぼちぼち復帰するとして、先ずは釣行記を書きたかった。その為には釣りに行かねば成らない。
この体で豚小屋だの石田島だのと贅沢は言わない。桟橋の片隅で竿を振らせてもらえばいい。
その思いを外来日の面談で先生に訊いてみたら、こう言われた。
「あゝ、ダメですね。半年間は血液が塊やすく再発しやすいので……」。淡い期待を抱いていたが、あっさりと却下されて、
一件落着となった。ちょっと残念ではあるが、
隠れてこっそりと出掛けて行くわけにもいくまい。
というわけで、
半年後、来年の四月頃まで竿は振れなく成ってしまいました。
また、乗ッ込みの頃に逢いましょう。

お仕舞い。

追記、
休載中も時々、何かを書きますので、
見捨てずに遊びに来てください。

2011年11月04日(金) 。 
吉右衛門。



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