戸面原ダム。
宇藤木橋先、第1カーブ。
戸面原ボートセンター。
快晴夏空、大風時々突風。
気温31度、減水1.0m、水温25度、水色澄み。
渓間で釣った魚は大きかった、の巻。
戸面山が哭いている。
強風が咆哮を放つたびに、山の木々は押し倒されそうだ。
──こういうことだったのか。
朝、出立時に戸面原ダムボートセンターの管理人、相沢さんから「強風が邪魔で釣りは難儀である」ことを告げられていた。
本来であれば逸る気持ちを鎮めてご忠告に従うのだが、前回の釣行から四十日も空いていたのと、先日も残務に追われ日延べした経緯から、もう待てなかった。
風程度のことなら、我慢をするつもりでやってきた。
花も嵐も踏み越える覚悟であった。
然し、想像を遥かに超えた強風に、狼狽える自分がいる。
ボートセンター手前の橋から見渡す湖も、凄い荒れようだ。
釣り人は幾人もいるが、皆、強風から身を隠すように窪地に入り竿を振っている。魚の密度より避風を優先してポイントを選定したに相違ない。
滅入るものがあった。
魚釣り以前の問題として、竿が振れるかだ。
──どうしよう。
暫し、立ち尽くし考えたが、今更、引返すわけにもいくまい。
これも天命。
意を決してボートセンターに車を走らせる。
午前七時十分。
駐車場に車を滑らすと、相沢さんが出迎えてくれた。
「おはようございます」
丁寧に挨拶をして入店。
四方山話のあと、相沢解説員によるポイント講習を受講。
「今日は大風による悪天候です。生憎、この大風を避けられるポイントはほぼ埋まっています。残りのポイントで釣れそうなのは石田島の島表と杉林だけです。石田島には一人の方しか入釣していません。その方が西北の立木側に入釣していますから川又側に入ってください。竿は……後略」
更に続く、
「杉林にも二人の方がいらっしゃいますが、何れも竹柵の手前側にいます。コチラは真ん中辺りがよろしいでしょう」
この丁寧且つ親切な説明を神妙な面持ちで聞きながらも、
心の中で呟く。
──今日は捨てゲームにしないか。
どうせ捨てゲームにするのなら、未踏に地に入りたい。
「あのお、お薦めいただいた処に入れば十枚程度は釣れるかもしれません。然し、この大風でこの時間です。出来れば未踏の地に行ってみたいです」
更に続ける、
「宇藤木橋に向こうで竿を出したことがありません。あちらは如何でしょうか…?」
「ベタ凪です。しかし、釣果となると……」
急にトーンが下がった。
──そうか、釣れていないのか。
風と貧果。
どちらのリスクが大きいか。
考える事などない、風だ。
「三枚釣れれば充分です。いや、零でもいいですから、宇藤木橋の向こうに行きたいです」
午前七時半。
出撃。
本日天気晴朗ナレドモ波高シ。
日本海海戦が行われた日も、こんな天気だったのだろう。
あの日、我が帝国海軍は皇国の興廃をかけて敵バルチック艦隊を殲滅すべく出撃したが、今日、オレは宇藤木橋の向こうに棲む魚を釣りに行く。
平和だ。戦争のない時代に生まれた幸運を思う。
そんな思いに耽っているオレに、相沢さんは最後のひと言をかけてくれた。
「帰ってくる時、風が橋の下に集中して櫓を漕いでも進まない時は連絡ください。迎えに行きますから」だって。
──優しいんだ…。
「ありがとうございます。行ってきます」
……、
杉林では朝の説明通りふたりの方が竿を振っている。そしてこの方々が、今日、見かけた最後の釣り人となった。
鎌の鼻、南郷岬を過ぎて湖面が広がりをみせると、風が襲いかかる。風は恐らく舞っているのだろう。追い風だったり逆風になったりで何れの方向からも吹いて、オレを苦しめる。
湖面もうねりをあげていて、いくら漕いでも進まない。
二進も三進もいかなくなって、泣きが入る。
──貴様!それでも日本男児か!
そう叱咤して、櫓に力を込める。
……、
どうにかこうにか宇藤木橋をくぐり抜けた。するとどうだ。進めば進むほどに風は弱まり、目的地の第1カーブ辺りまでくると、そよとも吹いていない。
──べた凪だ。
──なる程、こういう事か。
目的地の第1カーブに着舟してから、暫く周囲を眺めていると、段々と事態が飲み込めてきた。
オレは今、渓谷の溪間にいる。谷底にいるのだ。
見上げる断崖の上には生活道路があり、その上に戸面山が岩肌を曝して聳え立つ。そこで猛威を振るう大風も流石にココ迄は降りてこれない。おまけに夏の太陽も遮断してくれているから、熱中症を心配する必要もない。
助かるんだ。オレのような心臓病患者には。
戸面原にもこんな秘境とも思える、素晴らしい処があったのだ。
よかった。強風を突いてきた甲斐があった。
◯本日のデータと予定。
・目標/三枚。
・竿 /乱馬.12尺。
・浮子/忠相グラスムクトップ.10番。
・鉤素/450粍+600粍。
・餌 /麩系の両団子。
・納竿/定めず。
午前八時四五分、
べた凪の秘境での、第一投。
遅ればせながら、今季四度目の魚釣りが始まった。
今日に限っては、端から魚が釣れるとは思っていない。
捨てゲームにして未踏の地にきてみたら、思いがけない産物として大風は避けられ、素晴らしい景観とも巡り会えた。これだけで充分としておきたい。
……、
浮子は微動だにしない。
その静かなること林の如く、だ。
これは覚悟のうえというか予想通りの事だとしても、静けさもここまでくると、退屈で仕方がない。
退屈に釣られ集中力が途切れだすと、初めて宇藤橋を越えてきた時の事を思いだした。
そう、実はオレ、竿を出すのは始めてだが宇藤木橋を越えてきたのは二度目なのだ。
あれは記念すべき、へら鮒釣り再開の日であった。
2007年4月10日が、その日だった。
あの日は濃霧で視界が妨げられていた。そのため道に迷い不覚にも十分間遅れて事務所に着いた。そして簡単な手続きを済ませて桟橋へ出向くと、前管理人氏から強い口調で幾つかの諸注意を受け、杉林への入釣を薦められた。
決して甘く見たわけではない。然し、いきなり舟上で釣りをするには空白期間が長過ぎた。
無謀であった。
三十年のブランクは筆舌には尽くし難い時間であった。舟上で立上がることは疎か炉の漕ぎ方すらも忘れかけていた。それに濃い霧と管理人の口調から受けていた重圧は可成りのものだった。
それが原因とは言わない。言わないが目的地を見つけるには困難を極めた。仕方なく杉林は諦め、着舟可能な場所を求めて土地勘の無い湖上を彷徨った。然し、いくら探しても、初心者が容易に舟を着けられそうな場所は見当たらなかった。
いつしか宇藤木橋も越えたのだろう。なんとか着けられそうな場所をみつけた。それが、先ほど通過してきた場所だった。
おっかなびっくりであった。
それでも蛮勇を奮い接岸。やっとの思いで左右のロープを結び、あとは舳先のロープを立木に廻すだけの所までこぎ着けた。
季節は初春だというのに、汗が滴り落ちていた。
その時だった。頭上から凄まじい怒号が落ちてきたのは。
「お客さん、ココは禁止区域なんだよっ!。なんでオレの言った場所に入らないんだっ!」
怒られてもなあ…。
禁止区域の表示を見落とした過失はあるにせよだ。
弱り目に祟り目だった。途方に暮れた。
こんな筈ではなかった。
楽しみにしていたへら鮒釣りだったが、暗澹たる気分に陥った。
結局、湖上を再び彷徨い馬の背に辿り着き、ビギナーズラックもあってか四十枚もの魚を釣り上げた。遠い昔、三十年前の釣りでは考えられなかった魚の数だ。
大漁であった。
それだけに興奮もしたが、喜びは半減であった。
そして強く思った。
「ココはオレの来る場所ではない」、と。
……、
あれから五年が経った。
今はココに来るのが大きな楽しみだ。現管理人御夫妻には、大変お世話になっている。
そしてゆとりも出てきた今にしてからこそ思う。
戸面原ダムに釣り場を開設されたご苦労を。
管理事務所と桟橋を作り、舟を買い揃えてから魚を放流する。そして魚の居着き先を確認してポイントに名前を付ける。シロウトが想像しただけでも途轍もない作業に思えるが、プロが実行しても簡単ではなかろう。恐らくその間は、生活の、いや人生の総てをコレに傾注されていたのではないか。それに、五年前のあの時だって事故を未然に防ぐ義務からであったろうし、ビギナーに少しでも釣らせてやりたくて出た言葉だったかもしれない…。
恐らくそんなご苦労で作り上げた職場を守る為に、必死であったのだろう…。
こんなことを考えていたら、いつか戸面原ダムの歴史年表でも作ってみたくなった。
午前十一時、
閑話休題。
釣りに戻る。
開始から二時間十五分を経過したが、相変わらず何も無い。
エサを打っては切り、打っては切りの繰り返しだ。
そして十一時を過ぎた数分後、初めて異変が起きた。
エサを切るべく竿をあげた時、偶然のタイミングで魚の口のハリが掛ったのだ。然し、直ぐバレて魚種の確認は出来なかったが、へら鮒であることに間違えはないだろう。
……、
俄然、勇気とヤル気がモリモリと湧いてきた。
気持ちが盛り上がると、手返しのピッチも早くなる。
然し、気持ちとは裏腹に、何の変化もない。
変化が無いなら、竿を替えて他の棚も探ろうと考えた。
頭に本日持参の最長竿、十六尺が浮かんだ。
竿替えを決断したが、その前にやっておきたい事があった。
浅い棚も悪戯したいのだ。前回あまりの下手さにサジを投げた、二本棚を試してみようと思った。
午前十一時半、
悪戯心が、吉とでた。
数投目で初の魚信に出会せた。
魚が銜えて走ったのだろう。浮子が力強く斜めに沈んだ。
空かさずビシッと合わせると、どうにか針を魚の口に掛けることが出来た。そして棚が浅い分、魚は直ぐに水面へ姿を現した。
──大きい!。
年に一度出会すことが出来るかどうかのサイズだ。
バラしたくなかった。
これが今日出会う、最初で最後の魚になりそうだからだ。
何としても釣り上げたかったが、怯えがある。
こんな大物がくるとは考えてもみなかったから、ハリスが細い。0.4号だ。これでは慎重にならざるを得ない。
切れれば反動で仕掛けが頭上の樹木に掛かり、最悪、浮子を損失する憂き目に遭う。然し、浮子は買えば済むが、魚の口に刺さった針を外してやることが出来ない。
相手に傷をつけるは、嫌だ。
──それは何とか避けたい。
小康状態が続き、水入となった。
どのくらい時間が経っただろう。勝敗の帰趨がみえてきた。
オレも疲れたが、魚も疲れた。
俄に手応えが無くなり、抵抗が止んだ。
勝ちを確信出来た。
そして己の腕力の無さを嘆きながらも引き寄せ、釣り上げた。
釣った!。
行司の軍配がオレにあがった。
嬉しかった。
玉で救った瞬間の快感といったらなかった。
──どのくらいの大きさなのだろう。
興味が湧いてきたので測ってみたら、壱尺三寸五分であった。期待の壱尺五寸とはいかなかったが、金星をあげた心境であった。
そして更に続く。
ハリスを0.5号に替えた一投目に、またも釣れた。
さっきのヤツが、またかかったのかと思うほどで、
壱尺三寸前後の写真判定であった。
正午、
この満足感はなんだ!。
思いがけず魚が釣れたこと、大きかったこと、
魚とサシで男の勝負が出来たこと。
すっかり魅了された。
そして今度は十六尺で挑戦。
竿が大きく曲がるのをみてみたい。
浅い棚で釣れたのに、竿を替える愚も思ったが、これでいい。
……、
満月に曲がる竿を夢みたが思惑通りとはいかない。
そしてそろそろ十六尺に替えた事の後悔を覚えた頃に、釣れた。
これも計測してみたら、壱尺三寸零分。十三時半の事。
本日ただ今の釣果は、三枚。
数は乏しいが内容は濃い。
三枚合わせた全長が四尺にもなる。
気をよくして、十尺竿に替えて最後の挑戦。
今日は浅い棚の方がよさそうなので期待をもって挑むと、思惑通りで三投目に釣れた。壱尺壱寸七分。
……、
終わりが近づいたので、今日の周囲の状況を書き留めておく。
先ずは周囲の釣り人の配置であるが、皆無。誰もいない。
では居場所はというと、第1カーブを曲がった外側直ぐの辺り。本来は内側の方がよいらしいが減水(1m)の影響で地肌が露呈しておりロープを結ぶ対象の立木がなかった。
……、
珍しい事もあるものだ。
今日は、魚信と釣果が同じ数だ。
浮子が四度動いて、四匹釣った。
嫌いじゃないから、更に戦闘を続行する意思もあるが、
最早、四匹も五匹も同じだろう。
この興奮冷めやらぬうちにヤメておこう…。
そう思った途端に、一件落着。
十四時ピッタシ、竿を仕舞う。
実に愉快な釣行であった。
お仕舞い。
○本日の釣況。
・08:45〜11:30、12尺天々/0枚、両団子、
11:30〜11:50、12尺2本/2枚、両団子、
12:00〜13:30、16尺天々/1枚、両団子、
13:40〜14:00、10尺天々/1枚、両団子。
・合計 二枚。
壱尺壱寸七分〜壱尺三寸五分。
○この日の釣果データ。
記事掲載のPDFデータはこちら>>>
○2012年データ。
・釣行回数/4回
・累計釣果/48枚、平均/12.0枚。
2012年08月04日(土) 。
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